下賀茂神社ー糺の杜
「答えはひとつ」のパラダイムに囚われ、正しさも「ひとつ」と思い込み、その「ひとつ」の正しさを追いかけて、『ひとつの正しさ』を身にまとう。
「同じ」であることが「正しさ」であると思い込み、「同じ」のパラダイムに囚われ、「ひとつ」の「同じ正しさ」を追いかけて、『ひとつの同じ正しさ』を身にまとう。
心の奥底では「正しさ」など求めてはいない。
自分の魂が求めているものは別のもの。
しかし、幼き頃から押し込めた「魂の声」は、無数の記憶の「かけら」と共に埋もれて、どれが「魂の声」かわからない。
わからないから仕方なく「同じ」ことを繰り返す。
過去と同じ、昨日と同じ、明日も同じ
「ひとつの同じ正しさ」の檻の中こそ安心。
だがしかし、心に埋もれてしまった「魂の声」を、さそり座の新月があぶり出す。
子供のころから押し殺されてきた「魂の声」は、『明日も同じ』を許さないほどの怒りを放つ。
十人十色、百人百色の人間の「正しさ」とは何だ?
「同じ」でないものを「同じ」にすることが「正しい」のか?
「十色」「百色」あるものを「一色」にすることが「正しい」のか?
「ひとつの正しさ」は「正しい」のか?
「同じ」は「正しい」のか?
『正』とは「一」に「止」まると書く文字
「一」は「意」であり「口」であり「言葉」
ひとつの言葉に「止まる」のが正しさというも
ゆえに「正しい」とは「囚われ」である
学校で刷り込まれたこの「正解」を当てる習慣の中で、人は「言葉」に『囚われて』いった。
「ひとつ」の「正しさ」に行き着くように引かれた線路から、外れることを恐れるほどに習慣化した思考に囚われて行った。
正解はひとつしかない。
だから正解は同じ。
答えを探しているのではなく、常に「恐れ」から逃げている。
「同じ正しさ」を身にまとえない恐怖に囚われている。
「同じ正しさ」を身にまとえるまで、自分の心が自分を「糾(ただ)して」いるのである。
だがそこには「魂の声」は無い。
「糾す」とは「糸(意図)」を「曲げる」という意である。
人は自分を「ひとつの同じ正しさ」へと「曲げて」いるのである。
囚われから抜け出すには「正しさ」を「糺す」ことである。
「糺」とは「糸(意図)」を「真ん中」から逸れないようにすること。
では「真ん中」とは?
「同じ正しさ」の中にはない。
だから「同じ正しさ」を探し求めるな。
真ん中は「自分の真ん中」である。
そこには自分の「魂の声」しかない。
「正しさ」で歪んだ自分を「糺せ」
正しさで歪んだ正義を糺せ
正しさで歪んだ日常を糺せ
正しさに「糾す」自分を糺せ
自分を曲げて歪める檻
それが「答えはひとつ」のパラダイム
さそり座の新月は、記憶に埋もれた魂の声を浮き上がらせ、心を苛むだろう。
だがそれは「責め」ではなく「帰りたい」という叫びである。
「自分に帰りたい」という叫びである。
占星学とアロマ
心を苛む痛みを和らげるには「マジョラム」や「ゼラニウム」の香りに「レモン」を重ね、安らぎの香りの中で「魂の声」を迎えてあげれば、「正しさ」に囚われた心もほぐれて「魂の声」を受け入れることができるでしょう。
恐れる心をもっと強くしたいのであれば、そこに「ローズマリー」を加えるといいです。
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